愛称はダニエル。11月の大相撲九州場所で、東十両筆頭の碧山(37=春日野)が8勝7敗と勝ち越し、来場所の返り入幕を確実とした。7勝7敗で迎えた千秋楽で高橋を破った後の支度部屋には、同じブルガリア出身の鳴戸親方(元大関琴欧洲)も駆けつけた。碧山は「わざわざ来てくれて、本当にうれしい」と、郷土の先輩からの握手と祝福の言葉に感謝した。部屋や一門の垣根を越え、価値ある白星であることは、自身以上に周囲が分かっていた。
東前頭14枚目だった9月の秋場所で5勝10敗と負け越し、5年10カ月ぶりに十両に陥落した。それは同時に、名門春日野部屋としては1967年(昭42)秋場所以来、実に56年ぶりとなる幕内力士不在を意味していた。11年九州場所から6年間幕内を守った後、1場所だけ十両に陥落した18年初場所は、幕内で同部屋の栃ノ心が初優勝を飾り、栃煌山もいた。現在は39歳の玉鷲に次いで、関取衆で2番目の年長。部屋での猛稽古で競い合ってきた栃ノ心も栃煌山も引退した。今回の十両陥落前、碧山が内心を明かしたことがあった。
碧山 「部屋の歴史のことは知っています。プレッシャーはありますよ。あまり考えないようにはしているけど。でも何も考えていなかったら、それは部屋のことを考えていないということ。やっぱり歴史を途切れさせたくないですよ。春日野部屋の力士だから」。
09年に入門したのは旧田子ノ浦部屋だった。だが元前頭久島海の師匠が、12年2月に46歳で急逝。後継者が不在だったため、部屋の移籍を余儀なくされた。
碧山 「もともと春日野部屋に出稽古に行っていて(旧田子ノ浦部屋の)おかみさんに『できれば春日野部屋に行ってほしい』と言われていました。『関取衆も多いし、もっと強くなれるから』と。おかみさんの言った通り。春日野部屋に行って本当によかった。もしも春日野部屋に行っていなかったら、どれだけ幕内にいられたか分からない。(先代田子ノ浦親方が亡くなった時点で)まだ幕内を2場所しか経験していなかったし。今は幕内70場所。もうすぐ丸12年。春日野部屋にいたから今がある」。
実際の部屋移籍の手続きは前代未聞で、そのことを知る関係者も実は少ない。
碧山 「(12年1月末に2度目の就任となった)北の湖理事長から封筒が届いたんですよ。普通のサイズの封筒。それが(旧田子ノ浦部屋の)全員に届いた。そこに1人ずつ、どこの部屋に行きたいかを書いて送る。どこの部屋に行きたいかを、事前に相談するのは『なし』という雰囲気でした。みんな出羽海部屋に行くと思っていた。封筒を送った、次の次の日に発表されるまで『1人でさみしいな』と。そう思っていたら碧天(あおぞら)さんと、碧己真(あおきしん)も春日野部屋を選んでいた。うれしかった。8人のうち、出羽海部屋が海龍さんとか5人で春日野部屋が3人。春日野部屋の稽古は厳しいけど、自分で選んだ道だから。選んでよかった」。
それまで同様のケースで部屋を移籍する場合、所属力士らは丸ごと別の1つの部屋に所属先を替えるのが通例だった。複数の部屋に別れて、しかも個人の意思を尊重した移籍は異例だった。だからこそ言い訳もできなければ愛着もわいた。
碧山 「栃ノ心と栃煌山とは、本当によく稽古しました。2人はほぼ同い年。生まれた年は2人の方が1年遅いけど、栃煌山は早生まれだから同じ学年だし。あの2人がいたから、今があると思います。だから若い力士にも、できる限り胸を出すようにしています。年を取って、いろいろと痛むから早起きして、いっぱい準備運動してからね」。
春日野部屋の力士だけではなく、巡業では他の部屋の力士にも稽古をつけることで知られる。「強くなるには稽古しかないから」。現在は日本国籍を取得。昭和生まれの37歳は、春日野部屋伝統の猛稽古を次世代に引き継ぐことも使命と感じている。来場所、幕内前半の取組に戻れば「幼稚園に娘を迎えに行かないと」と、急ぎ足で支度部屋を後にする姿も再び披露することになるだろう。
11月29日には、部屋として現在2人目の関取となる栃武蔵の再十両昇進も発表された。九州場所千秋楽、取組後の支度部屋では「若い衆はあきらめずに頑張ってほしい」と、期待していた。その言葉に「自分もまだ頑張ろうかな」と付け加え、碧山はほほ笑んだ。1度は幕内力士の連続在位が途切れた春日野部屋が、新たな歴史を刻み始めようとしている。【高田文太】
(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)
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